サバ(雌)。太平洋に浮かぶ小さな島で生まれる。上京後、コギャル系ローマ人を経てVIPPERへ。英語コンサルタントの顔も持つ。"qちゃん"という子猫を飼っている。 趣味は自作自演。japanese_sabaアットlive.jp


by kyonkoenglish

カテゴリ:第一章( 4 )

■イギリス滞在時代②(ひたすらWriting期)

私は日本で留学エージェンシーを通し、ロンドンの英語学校に12週間通うことになっていた。

滞在一日目、これがいかに馬鹿げたことであるか、すぐに気が付いた。
私が入れられたのは「中の上」ぐらいのクラスで、そこには入学時のテストで同じレベルと見なされた各国の生徒が集まっていた。

つまり、クラスメイトは皆、非ネイティブで、私と同じ程度の英語力しかない。

ロンドンに来たのはイギリス人、つまりネイティブと話すためだ。
たどたどしい英語をしゃべるトルコ人と毎日話をするぐらいだったら、日本でイーオンだのNOVAだのに通った方がよっぽどマシではないか。

唯一のネイティブはクラスの担任の先生だったが、彼らは講義をするでもなく、単に英語を使ったゲームをして私たちを遊ばせるだけだった。
授業が終わった後は、フランス人やブラジル人のクラスメイトたちとロンドンの街をぶらぶらしたり、チャイナタウンで中華を食べたりした。

ロンドンの街は私にいろんなことを忘れさせ、それなりに楽しかった。正直、英語などどうでも良かった。
苦しい病気を乗り越えたんだから、楽しい12週間の休暇を過ごしても、ばちは当たらないだろう。そんな気分だった。

少しずつ気分が変わってきたのは、滞在一ヶ月目ぐらいからだ。
周囲のイタリア人だのメキシコ人だのが話す、文法がめちゃくちゃの英語が気になってきたのだ。
これって、かっこ悪いなぁ。せめて、イギリスのお店の人にバカにされないぐらいには、正しい英語を話したいなぁ。

そんなとき、クラスで英語のメールを書くという授業があった。
私は自信があった答案を出したのに、冠詞や時制のミスで真っ赤になった答案が返ってきた。

え!?

TOEIC900点ホルダーの私が、冠詞や時制をわかってないの?

この”気づき”が、私の英語人生の分岐点となった。

翌日、私はA4ノートの裏表にぎっしりと英文を書いて、添削してほしい、と、担任のKevinに持っていった。
返ってきたのは、やはり真っ赤な答案だった。

Kevinとの交換日記が始まった。

もともと、ものを書くのが好きな私は、Kevinをなんとか楽しませようと、コメディー、旅行記、日本の歴史や風習、と何でも書いた。
戦国時代と江戸幕府成立のことや、『平家物語』も覚えている限り、英語で書いた。

書き始めて、「ここでこの単語を使うのは正しいのか」とか「時制は合っているか」に気をつけるようになった。
サブ担任だったSumは文法の説明がうまかったので、直されて納得がいかないところはSumに聞きに行った。
ビジネスに関する単語は、ビジネス英語担当のChrisに聞きに行った。

私はクラスにはあまり出なかったが、放課後、生徒たちがサッカーや観光をしている時間は、ほとんど図書館やカフェでノートにエッセイを書き、先生たちを追いかけて質問してまわっていた。

こうして2ヵ月後、私が書くエッセイには、ほとんど赤が入らなくなった。
英字新聞のちょっとした文法ミスも指摘できるほどになっていた。
Sumは"Practical English Usage"という英語の文法書を教えてくれた。ネイティブも参考にする本だよ、と。

KevinとChrisとはすっかり仲良くなり、入社前にLondonにおいで、また会おう、ということになった。
それまでの間に、もっと英語力を上げたい。
これが、次の原動力となった。

12週間の滞在を終えて、成田に向けて飛び立った私のカバンの中には、Londonで愛読していたたくさんのゴシップ誌と『Practical English Usage』、そして「英語をモノにしてやろう」という熱い思いが詰まっていた。
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by kyonkoenglish | 2007-08-03 21:28 | 第一章
■イギリス滞在時代①(ひたすらWriting期)

大学時代の彼と別れたショックで、私は重い心の病にかかり、大学を一年留年していた。
この間は、ほとんどベッドで暮らしていたので英語とはまったく関わっていないし、もはや興味も失っていた。

身体をだましだまし就職活動をこなし、たまたま受けた大手の外資系IT企業に就職が決まった。
大学の単位は揃っていたので、あとは、一年後に卒論を提出するだけだ。

少し、気分が楽になった。
それでもまだ心は彼がいるアメリカに向いていた。
会いに行きたい。

「外資系企業に入社するのだから、ビジネス英語を習得したい。大学に行く必要もないし、
 アメリカに語学留学させてほしい」

と母に頼んだ。

母は私の本心を見抜いていた。
絶対にアメリカに行かせてはならない。

ただ、病気の私が何かするのは良いと思ったらしい。

「ヨーロッパ系の会社に勤めるんだから、アメリカじゃなくてイギリスで英語を学んだ方が良いんじゃないの」

と提案した。

「あ、バレてる」と私は思った。
もう、アメリカでもイギリスでも、どっちでも良いや。彼との思い出が染み付いたこの部屋を離れたい。

こうして一ヵ月後、そんなに張り切りもせず、若干の期待も持ちつつ、私はヒースロー空港に降り立った。
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by kyonkoenglish | 2007-08-02 19:31 | 第一章
■中学~高校時代(英検用単語暗記期)

待ちに待った「大きくなったら」の年齢がやってきた。
中学校に通ったら「英語」を学べるのである。私は夢中で教科書をめくり、参考書をむさぼるように読んだ。

ところが、あまり楽しくはないことがすぐにわかった。
簡単な単語は知っているし、英語に慣れているため、英文の意味が「なんとなく」理解できてしまったのである。
それなのに、参考書には「SVOC」だの「so that構文」だの、わけのわからない文法用語が並んでいる。こんなもの、何の役に立つんだろう?

ここで私は大きな勘違いをした。
「単語さえわかれば、文法がわからなくても英語はできる」と思ってしまったのである。

この勉強法に拍車をかけたのが「英検」であった。忘れもしない、旺文社の『英検単語集』シリーズ。
この単語集を買って、数百個あるすべての単語を単語カードにし、学校の行き帰りや休み時間にひたすら覚えた。
歩いているときも食べているときも単語カードをめくっている、思えば感じの良くない子供であった。もちろん、単語集一冊分はすべて覚えた。

幸か不幸か、この単語集の的中率は非常に高く、中学生で英検準二級、高校一年生の春に英検二級を取得した。
この「単語暗記法」はさらにエスカレートし、「英単語集ではなく、いっそ英和辞典を丸暗記したらどうか」と考え、その頃持っていた英和辞典を暗記し始めた。最初に覚えた単語は"abacus"「そろばん」であった。それからabandon, abbey と続いたのは今でも覚えている。

私の新しい試みを聞いた父は、「明治時代の人たちは、辞書を暗記して、もう見ることができないように、覚えたページを破いて食べたんだ」と私をあおった。
それを聞いて、「辞書を食べるのは、ちょっと意味がわからない」と思ったのと、根気が続かなかったので辞書丸暗記の夢はついえた。
 
大学受験期に入ってからも、相変わらず文法は無視していた。
高校教師はしきりに「関係代名詞の主語がどうしたこうした」と教え、予備校講師は必ず長文中のSとVの数を数えていた。
私は、なんのこっちゃ、と思いながら文法の時間はほとんど何も聞いておらず、文法問題の問題集の問題と解説を暗記した。
この方法でテストではいつも満点近く取れるので、これで良いと思っていた。

そのうち大学受験用の教材では飽き足らなくなり、シドニー・シェルダンを原作で読んだり、まだ翻訳される前のハリー・ポッター第一巻を取り寄せて読んだりしていた。
まさに勘違いの絶頂期であった。
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by kyonkoenglish | 2007-07-31 19:31 | 第一章
プロジェクト・マネージメントによる効率的な英語勉強法を紹介する前に、私が20年間、どれほど英語と格闘し、多くの時間を無駄にしてきたかを紹介しておこう。これは読者の皆さんに戒めとして頂くと同時に、私がなぜここまで熱意をもって英語の勉強法を確立してきたかをご理解いただきたいためである。

■英語との出会い

 私と英語が出会ったのは、私がまだ母のお腹の中にいた頃であった。田舎の小さなメーカー勤めの父は、簡単な英語を話せたことにより、外国人顧客の接待に追われ、様々な国の人を家に招いていた。お腹の中で聴いていた言語は、英語と日本語と半分ずつぐらいではなかっただろうか。無論、覚えていないので後から母に聞いた話である。

お腹の外に出てからは、ひげのギリシャ人だの眼鏡の中国人だのにかわるがわる抱かれては、ギャーギャー泣いていたらしい。

父は、エンジニアなのに「通訳さん」と呼ばれ、田舎でこそ神のように崇められていたが、実際はひどいブロークンイングリッシュを話していた。インド人の顧客に出した英語のメールが真っ赤に添削されて返ってきたこともあったという。
母は「中学生の頃に体育教師に英語を習った」トラウマとかで、まったく英語ができず、外国人客の接待に苦労していた。そのため、「子供たち(私と二歳年下の妹)には英語で苦労をさせないようにしよう」と両親間で意見がまとまったらしい。

 かくして、幼児期の私は、「これはなあに」と聞くと、「これはね、カエル。英語では、”frog”よ」といった感じの意味不明な英才教育らしきものを受けたのである。

残念なことに、この「英才教育」はアルファベットと動物の名前までが限界であった。父は仕事で忙しいし、母はこれ以上英語がわからない。

「きょうこちゃん、お客様がいらっしゃったら、ナイストゥーミーチューって言うのよ」

「ナイストゥーミーチューって、何?ナイストゥーって?ミーチューって?」

「・・・そういうのはいいから、ナイストゥーミーチューって言えば良いのよ」



いや、良くない。

5歳の私は思った。

ナイストゥーミーチューの、特に「チュー」が気になった。日本語にはない音だったからだ。
この「英語」って言語は、お母さんが言うように「ウッジューライクサムティー?」とか「グンナイ」とか、言葉の響きを暗記するのではなく、何か決まりがあるのではないか。そうでないと、私は教わった挨拶以外、「英語」って言語で話をできないではないか。

私はその問いを、母にぶつけた。

母の答えは「・・・そういうのは、もう少し大きくなったらわかるのよ」であった。

こうして、せっかくの英才教育はあっけなく終わってしまった。
しかし、両親は外国人の客を招いたり、ホームステイの受け入れを頻繁にしたりと、田舎にいながらも「国際的な環境」は整えてくれた。
11歳のときに、マレーシアでのホームステイプログラムに行かせてくれたのは大きな経験であった。
外国人と接する機会があれば、やはり言語でコミュニケーションが取りたい。私の中で「英語を勉強したい」という思いは熱く燃え上がっていった。この思いが、のちのドM時代の(余計な)モチベーションへとつながっていったのである。
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by kyonkoenglish | 2007-07-30 21:04 | 第一章